僕は僕が嫌いだけど、僕は僕が好きでありたい

本記事は広告およびアフィリエイトプログラムによる収益を得ています



一般論という極論(404 Blog Not Found)をよんで、「僕は僕が嫌いだけど、僕は僕が好きでありたい」という人種は考慮されていないような気がした。

「僕は僕が嫌いだけど、僕は僕が好きでありたい」と思ってるのは、私自身だ。たぶん、一般的には自己愛のゆがんだ形なんだと思う。弾氏とかは、自分が大好き人間だから、その方法で解決できるかもしれないけど、そうでない人たちは解決できないと思う。

「非コミュ」「非モテ」のジレンマというのはこういうところにあろうと思う。このジレンマにマチョな人の考え方を導入してもあまり意味がないのである。

私は人とかかわったら他人を傷つけてしまうという恐怖をいつももってるし、同時にそのことによって自分自身が傷つく事にも恐怖を抱いている。でも、人とかかわる限りは、人を傷つけないことは不可能なので、傷つけてしまったらそのときに考えようという考えを導入している。

それでも、自分が傷つくのは「心が痛い」ので、その考えを導入しても、人とかかわるのは恐怖を伴う。「非コミュ」「非モテ」の人の一部に私と同様の人が存在するだろうとは思う。

「僕は僕が嫌いだけど、僕は僕が好きでありたい」と思ってる人は絶望する必要はない。


世の中、いろんな考え方が存在して、いろんな正解があろうとは思う。
スポンサーリンク