「罪を憎んで人を憎まず」という論理が世間一般に通りにくくなってる現状で、人格と行為を分離して考えられる人はいるのだろうか?と思う。行為の批判は、本当に人格の批判ではないのか?原因と結果が密接に関連しているように、人格と行為も密接に関連している。しかしながら、原因が「運が悪い」と言う理由で結果が出るときもある。だから、この場合は原因は不確定になる。密接に関連しているように見えて、実はそれほど密接ではない。だから、文章をゆるくかけば、行為の批判に見せかけて人格を否定することも可能だし、また受けて側も行為の批判を人格の批判と捉える傾向が高くなるのは仕方がないだろう。
僕の考えだと、人に理解されないなら、自分自身は人を理解できるような人になろうと考えるが、人に理解されない人たちすべてがそう考えてるわけではない。
■[コミュニケーション]キモイって言われて傷つきましたって泣くのって、自ら「オタク」を否定してなくね?
否定してません。誰が間違ってるといっても、僕は否定してないと思います。
追加 2009/11/29
[批評もどき]「キモい」についてみんなもっと真剣に考えるべきだと思う。 (風が吹けば本屋が儲かる)
Comments (0) | Trackbacks (0)
みんな嘘つきだ。俺のことに関心があるなどといっても、それは相手が一方的に俺をウォッチしているだけのことで、別に俺自身のことなどどうでもよいのだ。俺が如何に精神的窮地に陥ろうとも誰も俺を助けない。この社会にいる全員が俺を助けない。
みんな死ねばいい。この世など終わればいい。そうすれば千年の国がやってくるのだから。そうしないと、私は救われない。地上に、有限の他者に、救いなど決してありはしない。
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20090317
私は、人は人を救えるだけの力を持ち得ないと思ってるので、あまり誰かに助けてもらえなくても、それが当たり前だと思うことにしている。
実際問題、人を救いたいと思っても、なかなか難しく、結局は何もできずに終わることも多い。でも、何もできずに終わることがわかっていても、人は手を差し伸べてくれるとは思う。
Comments (0) | Trackbacks (0)
なぜ、彼らは努力を恐れるのか?その要因は多岐にわたるだろうが、一言に集約するなら、
努力して自分が満足するような成果が得られなければ、高いプライドが傷ついて、自分自身が無価値であるかのように感じられて落胆するから。
という表現にまとめられるだろう。
「努力を恐れる男達」。(シロクマの屑籠(汎適所属))
なぜ、彼らは「努力をしない人々」を恐れるのか?その要因は多岐にわたるだろうが、一言に集約するなら、
努力しても「努力しない人々」より成果が得られなければ、高いプライドが傷ついて、自分自身が無価値であるかのように感じられて落胆するから。
という表現にまとめられるだろう。
正直なところ、前向きにがんばれがんばれ人々をみてるとうんざりする。
Comments (0) | Trackbacks (0)
平気で、見ず知らずの人間に、「あなたバカですね」と公共の場でいえる人って、コミュニュケーション下手だと思う。しかしながら、そういう人は自覚がないから困ったもんだとは思う。「あなたバカですね」と批判されて泣きかけてるのに、それも感じずに同じ言葉を投げ続ける行為って、いじめのなにものでもないと思う。それが自業自得であろうと、必要以上にバッシングする行為は、いじめでしょう?いじめって、いじめてる側は自覚症状ないからこれまた困り者である。
悪くても悪くなくても開き直る根性がないと、ネガティブコメントなんかに付き合えない。はてなブックマークコメントで、「あなたバカですね」と言うほど主張したいというのなら、ブログにエントリーをあげて書けば?とは思う。それほどでもなければ、「あなたバカですね」と言うことは書く必要はない?と思う。あえて書くのなら、それ相応の決意を持って書いてると勘違いされてもしかたがなかろうと思う。当人は軽い気持ちで書いてるのかもしれないが、私がもつ常識ではそうは思えないから、「あなたバカですね」と言われると傷つく。ここでいう常識というのは、「コミュニュケーション」に関する問題であるから、ある程度の正当性があると考えている。
コミュニュケーション上手な人は、同じ意思を伝えるにしても、ネガティブコメントにはならない。とりあえず、中途半端にこういう理論で理論武装して、ネガティブコメントを書く人はかわいそうな人だと決め付けて、排除するしかなかろうと思う。ネガティブコメントに付き合ってなにか良いことがあればよいのだが、現実問題そういうことはなかろうと思うので、スルーが妥当。
本当に繊細で心のやさしい人は、言葉を選ぶので、言葉を選べない人たちはダメだと思う。そういうダメな人の意見なんて正しくても無視してたらよいかなとは思う。自覚なくネガティブコメントを書く人はこの記事を読んで大いに反省した方がよいと思うよ。あと、考え方の相違というものはその人の人格と結びついてる傾向に高いので、この記事がイヤならあの記事もイヤなのは当然であって、この記事にもあの記事にも「あなたバカですね」と書くのは、健忘症の一種だと思っても良いですかね。
適当に思いつくまま書いてみたけど、ネガティブコメントをつける人は、本当に何も考えずに軽い気持ちでつけてる可能性が高いと思った。
—-追記 2008/12/16 —–
また、言葉を選ぶという点も、角が立たないように文章を書くこともできるけれど、あえて粗暴にふるまっていて、それが趣味で、コミュニケーションも求めてはいない人がいるんじゃないかなぁと思うのです。ネガコメ問題は、コミュニケーションの問題なのかなぁと。TV見ながら「バカじゃないの」などと独り言いう人いますよね。あのノリでブックマークを使っているのだとしたら、コミュニケーションを必ずしも求めてはいないように思うのです。
優しさと残酷さは同居できるし、意識して傷つける人、コミュニケーションを求めていない人もいるのでは。(ネガコメ問題)(どんなジレンマ)
TV見ながら、「バカじゃないの?」と独り言をいって、隣の人がそうそう俺も「バカじゃないの?」と思ったという他者に対する同意を求めてるとしたら、それは独り言でなくて、コミュニケーションの一種だと思います。本人は自覚してないけど、コミュニケーションをもとめてるのでしょう。
あわせて読みたい
Comments (1) | Trackbacks (1)

自分の会社では高卒も大卒もいるんだが、大卒のくせに上下関係・年功序列というのを知らない奴がたまに入ってくる。
高卒で入社3年目(21歳)の俺と大卒の新卒(22歳)がいた場合、必然的に「高卒の俺>ゆとり大卒」って序列になるはずだが、ゆとり新卒は高卒の先輩である俺にタメ口使ってくる。
「○○君、おはよう」みたいに。
一回ぶちきれて説教したんだが「だって僕のほうが年齢も学歴も上だし、タメ口でいいっしょ。何硬い事言ってんの?」とかほざいたんで、フルボコッにしそうになった。
おまえらにも言っておく。
社会は勤続年数が全てだ。例え年が18だろうと81だろうと、入社が早いほうが偉い。
そして1日でも早く入社した人が先輩だから、敬語を使え、頭を下げろ、命令は絶対だ。
これを忘れんな。
最近の新卒たちに言いたい事がある (匿名ダイアリー)
年功序列も上下関係も関係なくて、たぶんそれはビジネスマナーだと思います。大体、仕事のできる人、頭の切れる人、人間性のいい人は、言葉遣いが丁寧である。言葉遣いを丁寧にするだけで、その3つのどれかに思われることも多い。また、人を動かすには、その3つのうち最低限1つがないと無理である。
言葉遣いが悪かったら、仕事ができないか、頭が悪いか、人間性がわるいかのどれかに当てはまると考えても間違いはない。タメ口結構だが、何かあったときに誰の助けも借りずに問題を解決できるのならそれもよかろう。そういう覚悟をもってタメ口は使うべきである。私なんかは心が非常に狭いことがあって、タメ口ぼうやなんかいたら、ニコニコしながら分からずに仕事で嫌がらせをするだろうと思う。世の中心の広い人ばかりじゃないので、そういうリスクも考慮してタメ口をつかうのもよかろう。
もう少し悪人になれば、言葉遣いだけで、人を奴隷のように使うことが可能なのである(苦笑)。もちろん問題が起こったときに自己解決できる能力があったとしても、他人に解決してもらう方が楽でよい。
ビジネスマナーとか以前に、タメ口使われるほど、私たちは仲が良いのか?と問いたいときもある。
Comments (0) | Trackbacks (1)
Posted: 2008/11/18 | Filed under: たわごと | Tags: オバマ, 私, 私たち
古舘伊知郎氏が「格差社会」を語る気味悪さ(池田信夫 blog)を読んで、私たちの中の私について考えてみた。
景気が悪くなると、まっ先に切られるのが非正規労働者です。こういう人々の痛みを私たちはどこまで知っているのでしょうか。
「私たちの中の私」がそう感じるので、「私たち」を「私」に変えてみても良いはずだ。
景気が悪くなると、まっ先に切られるのが非正規労働者です。こういう人々の痛みを私はどこまで知っているのでしょうか。
池田Blogの記事のとおり、古舘氏が痛みを知ってるとは思えないのはそうであろう。不愉快さを感じる人はこの矛盾(偽善)が嫌なのだと思う。実際、私も古舘氏のコメントがいつもこんな感じで、共感を強く人に求めるのが嫌で、「報道ステーション」はほとんどみない。古舘氏のコメントがなければ、是非みたい番組なんですがね(^^;
私たちの中の私を考えると、世の中は、「共感」を重要視するように変化してきてるのかもしれないなと思う。ネット上でもSNSをはじめTwitterでも、「共感」を強く求めるものが増えてると思う。Yes, we canとかも、その一種なのかもしれないなと思う。
みのもんたが大げさに憤ってみせるコメントをする番組の朝の番組のほうは私はみのもんたが嫌いだけど、すんなりみることができる。みのもんたの場合は、みのもんたもそう感じてる事を私たちの中の私という切り口をつかって表現するから、許せるのかなと思う。
Comments (0) | Trackbacks (1)
コメント