「罪を憎んで人を憎まず」という論理が世間一般に通りにくくなってる現状で、人格と行為を分離して考えられる人はいるのだろうか?と思う。行為の批判は、本当に人格の批判ではないのか?原因と結果が密接に関連しているように、人格と行為も密接に関連している。しかしながら、原因が「運が悪い」と言う理由で結果が出るときもある。だから、この場合は原因は不確定になる。密接に関連しているように見えて、実はそれほど密接ではない。だから、文章をゆるくかけば、行為の批判に見せかけて人格を否定することも可能だし、また受けて側も行為の批判を人格の批判と捉える傾向が高くなるのは仕方がないだろう。

僕の考えだと、人に理解されないなら、自分自身は人を理解できるような人になろうと考えるが、人に理解されない人たちすべてがそう考えてるわけではない。

■[コミュニケーション]キモイって言われて傷つきましたって泣くのって、自ら「オタク」を否定してなくね?
否定してません。誰が間違ってるといっても、僕は否定してないと思います。

追加 2009/11/29
[批評もどき]「キモい」についてみんなもっと真剣に考えるべきだと思う。 (風が吹けば本屋が儲かる)

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遂に「復活」上巻を読了。下巻に入ったところ。
上巻の最後の方に、特に興味を惹かれた主張があったので、転載しておく :

世間に最も広く流布されている迷信の一つは、人間というものはそれぞれ固有の性質を持っているものだということである。すなわち、善人とか、悪人とか、賢人とか、愚者とか、精力的な者とか、無気力な者とかに分かれて存在しているという考え方である。だが、人間とはそのようなものではない。ただわれわれはある個人について、あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか、馬鹿でいるときよりもかしこいときのほうが多いとか、無気力でいるときより精力的であるときのほうが多いとか、あるいはその逆のことがいえるだけである。かりにわれわれがある個人について、あれは善人だとか利口だとかいい、別の個人のことを、あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば、それは誤りである。それなのに、われわれはいつもこんなふうに人間を区別しているが、これは公平を欠くことである。人間というものは河のようなものであって、どんな河でも水には変わりなく、どこへ行っても同じだが、それぞれの河は狭かったり、流れが早かったり、広かったり、静かだったり、冷たかったり、濁っていたり、温かだったりするのだ。人間もそれとまったく同じことであり、各人は人間性のあらゆる萌芽を自分のなかに持っているのであるが、あるときはその一部が、またあるときは他の性質が外面に現われることになる。そのために、人びとはしばしばまるっきり別人のように見えるけれども、実際には、相変わらず同一人なのである。なかにはこうした変化がとくにはげしい人もいる。

読書メモ(黎明日記)

を読んで、夏目漱石の「こころ」と同じ感触をした。夏目漱石の方は青空文庫にあるので検索して引用すると

「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚(しんせき)なぞの中(うち)に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型(いかた)に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
夏目漱石(こころ)

人間、行き着くところは同じ感覚なのかもしれないなと思った。

復活 (上巻) (新潮文庫) 復活 (上巻) (新潮文庫)
トルストイ

復活〈下〉 (新潮文庫) 光あるうち光の中を歩め (新潮文庫) 戦争と平和〈4〉 (新潮文庫) アンナ・カレーニナ (中巻) (新潮文庫) アンナ・カレーニナ (下巻) (新潮文庫)

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