私が言いたいことは別に大したことではなく、読み手も書き手も双方歩み寄ろうや、っていうごくありきたりで陳腐な意見だ。書き手は誤解されないように意識して文章を書く、読み手は書かれているものに不備があるかもしれないことを汲んでやることが必要だということ。ただ書き手側については今まで散々言われているだろうから、このエントリーでは読み手側について書きたい。
ネット上のコミュニケーション論に対する違和感(BLOG15.NET)
誤解をされない文章で何かを人に伝えることは難しいと思う。だから、コミュニュケーションにおいて、誤解されない文章は存在しないと言うことだ。「言うことだ」と断定的に書いてみるのも、「思う」と書いたら伝わらないかもしれないからあえて断定してみる。
文章を理解できない、誤読するときは、相手の思考が幼稚である場合と、その逆がありえる。でもって、読み手が傲慢だと思うのは、相手の思考が幼稚だと決め付けてしまって文章を読んでいるという姿勢にあると思う。その逆の場合もありえるということを忘れる人が多いと思う。なぜ、同じ文章でもきちんと正しく伝わる場合と、誤読される場合があるのかは不思議なものである。
こういうのは、文学作品とかそういうのを読むときを思い出してもらいたい。理解できない文章を書く作家は、ゴミでないのが明らかのように、読み手の努力も必要だということだ。
このブログを読んで、なんて傲慢なことを書く人なんだろうと思ったら、それはそのとおりです。私は傲慢なんです。伝わらない人には伝わらないでよいと思ってブログを書いてますから。
百年の誤読 (ちくま文庫 お 59-1)
岡野 宏文




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