「理不尽さ」が許容できないと「生きづらさ」を感じるのでは?

それに気がついているから、もう私は生きづらくはない。「きつく」はあっても。
生きづらい = 否定すべき権威が見つけづらい(404 Blog Not Found)

違うと思います。

社会がある意味成熟してしまったので、何が正しくて何が正しくないかがある程度明確化されてる状況下で理不尽なことを許容するのは大変難しいしまた折り合いをつけるのも難しい。だから、「生きづらい」んじゃないかなと思う。

「僕は僕のままでよいのかもしれない、そうだ僕は僕でよいのだ(EVA風)」みたいな自己確立もなかなか難しい。確かに「権威」というものは、僕という存在を相対化させ絶対化させるのに便利なものだが別にそういうものがなくても自己確立が可能である。

日本人は無神論者が多いので、神と言う存在をつかわなくても自己確立ができている。神を用いて、自己確立している人たちにとっては不思議にうつる。

話を戻すと、自己確立ができたとしても、「生きづらい」というものからは逃れられないと思うので、権威や自己確立について考えても仕方がないと思う。

権威の否定がいきづらさにつながる (たろの日記ページ,gooブログ版)
肯定しても自分を見失わないようになりたい (たろの日記ページ,gooブログ版)

権威を肯定する場合にも2つあると思います。権威と同一化することで肯定する場合と権威の奴隷になることで肯定する場合です。

元記事には、奴隷になるというのが抜けてるんだと思います。肯定=奴隷になるとしたら、権威を否定するより辛いことかもしれません。

dankogaiが本を読む理由って何なのだろう?(さまざまなめりっと )

この場合の書評は、映画の批評のように1つのエンターテーメントなんだと思います。本の中身を本当に紹介してしまったら、その本を読む気にさせずかつ本を読んだときに新鮮な驚きを消しまうので、あのような形に「結果として」なってるんだと思います。

考え方が、どんな本を読んでもぶれないというのは、年寄りだからです。年寄りを説得するのは至難のわざが必要です。どんな論理的につめても、説得はほぼ不可能だと思います。

年寄りは、褒められることに非常に弱いので、説得したかったらまずはべた褒めすることです。つまりは、説得はできないけど、「理不尽さ」を受け入れていただき表面上だけでの納得をしていただくという手法です。

私もどちらかというと年寄りなので、説得は無意味です。


追記:2012/01/26
またぼくの悪口がはてなに書かれていた。
他者を慮ることができずに生きづらくなる人の構図 - ハックルベリーに会いに行く
「他者を慮る」とか関係ないと思います。そのあたりは人それぞれ。「他者を慮ること」でかえって生きづらい人だってたくさん?いますよ。

どんなことにも、人は理不尽さを感じることがあるわけです。その理不尽さをうまく許容できるか、そういうことを感じないある意味幸せな人は、生きやすいだけだと思います。

人を踏みにじっても、自身は裕福な人で周りの目なんて気にしない人は、生きやすいでしょう。
人に悪口を言われても、気にしない人は生きやすいでしょう。
プライドが傷つけられても、そのことに気づかない人は生きやすいでしょう。

「空気が読めない」とか「他者を慮ることができないとか」というのは、後付的な理論な場合が多くて、都合の悪いことはすべてそのレッテルで処理してしまえば何でもかんでも正当化?するのに便利だと思います。空気が読めない人がぶつ壊したとしても、その程度で根本的な本当に大事な何かが壊れることなんて本当はありえないことのほうが多いわけですから。


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